いろはにほへと

本の紹介を、備忘録を兼ねて

変身

『変身』フランツ・カフカ(高橋義孝 訳)


虫が苦手で、なおかつ想像力がたくましい、というひとは読まない方がいいだろう。

世界的に有名な作家の長く読み継がれる名作であっても、向き不向きというものがある。

私がしてしまったように、せっかくコンビニで買った新作の抹茶プリンの味を台無しにしてまで読むべき本なんてない。


それでも多大な犠牲を払ってまで読んだのだから、少しは内容に触れよう。

物語はひとりの男が朝目覚めて、自分の体が虫に変身してしまっていることに気付くところからはじまる…というのは、あまりにも有名だ。


驚いたのは、この虫に変身してしまった男グレーゴルが、「どうしたら人間に戻れるのだろう」と思い悩むことがないことだ。

私にも、人間でいるのが嫌になる時がある。

だけどそれは、人間の姿かたちをしていることが嫌なのではない。人間の心の有り様だとか、社会生活が嫌というだけだ。


虫の体になってしまったグレーゴルは、しかし心はおおよそ人間のままでいる。家族の言葉を理解するし、思考している。

体と心のその乖離に耐えられるだろうか。私は無理だ。

もしかしたら、グレーゴルも耐えられなかったのかもしれない。序盤、虫の姿のままで家族や仕事の心配をしていたグレーゴルは、物語が進むに連れ、人間らしい思考をほんの少しずつ手放していく。

それは、心が体の方に合わせようとした結果ではないだろうか。


そういえば、こんな言葉を聞いたことがある。

「人間は、器に合わせて大きくなることができる」

例えば、自分には到底務まらないだろうと思う役職についたとしても、その任務を全うしようと努力するうちにその役職にふさわしい人間になれる、という意味だ。


外見や肩書よりも能力や性質の方が大切だと言うけれど、器だってちゃんと大事なのだと思う。

オオカミ族の少年

『オオカミ族の少年』ミシェル・ヘイヴァー(さくまゆみこ 訳)

 

クロニクル千古の闇シリーズ

遊びに来た友人が嬉しそうに「これ読んだことある!」と言ってくれたので。

そのうち書くつもりだったし、ちょうど良い機会になった。

 

物語の舞台は紀元前4000年の森だ。人間たちはそこで、自然を崇拝し、その大きな懐に抱かれて暮らしている。太古の昔、厳しい自然の中で身を寄せ合って生きた私たちの祖先。星を読むことも、風の声を聞くこともできなくなってしまった私たち。

 リスの肉のスープ、ノロジカの干し肉、薬草を入れた革袋、呪い師、赤土で刻む死の印…。私は紀元前の人間がどのように暮らしていたか知らないけれど、この物語に登場する人間たちの暮らしぶりはとてもほんとうらしく思える。強くて、弱くて、儚くて、しぶとい命たち。

 

そしてなによりも、「群れ」で暮らすこと。

ワタリガラス族、オオカミ族、アザラシ族、他にもたくさんの集団が、それぞれの秩序と掟のなかで暮らしている。もちろん、集団を超えた交流もある。

 でも、主人公の少年トラクだけは、違う。彼は生まれてからずっと、父親とふたりで暮らしてきた。その父親さえも、物語の最序盤で命を落としてしまう。

彼はどの群れの一員でもなかった。

 

このシリーズは、天涯孤独になった主人公が仲間になったオオカミの子と悪に挑んでいく、いわば冒険物語だけれど、私はひとりぼっちの主人公が自分の群れを形成していく物語だとも思っている。

 

生きていくには、やっぱり群れの一員であるべきなんだと思う。誰かを気にする―お腹を空かせていないか、病気でないか、寒がっていたり暑がっていたりはしないか―そして、誰かに気にされること。理由を説明するのは難しいけれど、それは人間としてとても大切なことだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ディアスと月の誓約

『ディアスと月の誓約』乾石智子

 

乾石智子先生の作品との出会いはこの本だった。

それは少しもロマンチックでも衝撃的でもなかったけれど、今でもよく覚えている。

地元のよく行く本屋さんのひとつは、回転寿司の隣にある。その日は家族とお寿司を食べに行って、そのついでに本屋さんに寄ったのだ。目当ての本もなく、店内をぷらぷら徘徊していた時、出会いは訪れた。何の気なしに、淡い藍色の表紙の本を手に取って、パラパラとページをめくった。

気付いた時には引きこまれていた。家族が呼びに来て、我に返るまで無我夢中で読んでいた。

 

百七十年分のつぐないを、ぼくらがみんなで分けあってはだめか。誰か一人におしつける運命でなくてはならないのか。(中略)めぐる生命、めぐるとき、めぐるさだめ、それこそぼくら死者のためのものなのに。

 

このお話には、サルヴィという神秘的な生き物が登場する。正確には、ファンズと呼ばれる生物の中で特別な力をもった個体なのだが、まあその辺はいいだろう。

私はファンズを鹿のような、トナカイのような生物だと思っている。(事実主人公が鹿の一種だという説明している)

だからなのか、サルヴィは私の頭の中に、シシ神の姿を借りてやってくる。サルヴィは白銀色、と描写されているから、この想像はあまり正しくない。でも、その在り方に似ているところはあると思う。

 

サルヴィは、めぐる命の象徴だ。

 

我はまた生まれる。我らはまた生まれる。

 

月も沈まぬ月となる。

 

冷たい凍土にしっかり脚をつけて、生きていく獣の強さ。

やせた土地に縋りつく人間のか弱さ。

 

乾石先生はそれらを見事に描写しているが、私の文章力などでは半分も伝わらないだろう。当然だ。乾石先生が表現する世界には当たり前に魔法が存在する。それは、虚構の中だから存在できる魔法とは少し違う。だって、読者はその瞬間、魔法が存在する世界にいるのだ。お話の世界を遠くから眺めているのではなく。そんな芸当ができてしまう乾石先生の魅力を、素人が伝えきれるはずがない。

 

だからぜひ、一度乾石作品を読んでみてほしい。魔法や冒険が好きならなおさら。きっと気に入る作品があると思う。

 

 

 

いのちの食べかた

いのちの食べかた森達也

 

ベジタリアンや、ヴィーガンという言葉を聞いたことのない人は少ないだろう。それでも一応解説しておくと、ベジタリアンとは肉や魚を食べない人々、ヴィーガンは肉や魚に加えて卵、乳製品、はちみつも食べない人々のことだ。肉や魚そのものでなくても、エキスが使われている調味料や、皮膚や骨から作られるゼラチンも口にしない、といった厳しい人もいる。

もしかしたら、このブログを読んでいる方の中にもベジタリアンヴィーガンはいるかもしれない。だから最初に、今日の記事は「ベジタリアンヴィーガンである/ない」で批判する意図はないと断りを入れたい。

 

突然ベジタリアンだのヴィーガンだのってなんの話だ、と思っただろうか。

今日紹介する本は、動物を食べる私たちについて書いている。小学校中・高学年から読めるであろう平易な文章で、量も文庫本で150ページ程度と少ないので、気になる方はぜひ読んでみてほしい。

平易な文章ではあるけれど、内容は随分濃い。肉が私たちの食卓へのぼるまでの過程に満遍なく触れている。その中で、作者が何度も伝えようとしていたことを抜き出してみた。

 

大切なのは「知ること」。

知って「思うこと」。

人は皆、同じなんだということを。いのちはかけがえのない存在だということを。

 

私たちは、自分がしていることを知らなければならない。自分を生かしているものがなにかを知らなければならない。自分の「食べたい」が動物を殺していることを自覚しなければならない。これから食べようとしている肉がどうやってここまで来たか、想像しなければならない。

 

ベジタリアンヴィーガンは自分が動物を殺していることを知り、食べられる動物のいのちを思い、「食べない」という選択をしている。

でも、「食べる」という選択だって間違いじゃないと私は思う。

どんな命も奪ったり傷つけたりすることなく生きていけたら、どんなに良いだろうか。
ベジタリアンヴィーガンの人々は、もしかしたらそんな未来を願っているのかもしれない。誰も肉を食べなくなったら、動物を殺す必要はないのだから。

でも。でも私はその願いを踏みにじっても、「食べる」という選択をするだろう。食べたいから。おいしいから。それだけの欲望のためにいのちを奪われる動物がいることを知ってなお、私は「食べる」。

なぜか、と聞かれてもまだ論理的な説明は難しい。でも「食べない」という選択は、私にとっては逃げているように感じてしまう。

 

何が正しいかはわからない。だから私はこれからも考え、「食べるか、食べないか」という問いを自分に課し続けるだろう。

それでいいと思うのだ。自己弁護のようだけれど、大切なのは何を選択したかより、自分で考えて選んだという事実だと思うから。

あかねさす

万葉集の恋うた』清川妙

 

あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき

野守は見ずや 君が袖振る

 

タイトルは額田王のこのうたから。

 

以前、古典文学が好きだ、と書いたと思う。私は物語文学だけでなく、和歌も好きで仕方ない。

最初に好きになったうたは何だっただろう。たぶん、山吹の句だったように思う。

 

七重八重 花は咲けども 山吹の

みのひとつだに なきぞかなしき

 

この句と出会ったのは中学生の頃だったか。そして私は山吹の花が咲くのを待ちわびるようになった。うたがひとつ私を豊かにした瞬間である。

 

私のお気に入りの句の多くは、草花や月について詠んだものだ。でも、記憶に深く刻まれることがなくても、読むたび心をときめかせてくれるのは、恋のうただ。

 

私は同じ年頃の女の子たちが少女漫画や恋愛小説を読んで「なんてロマンチック!」と目を輝かせていたとき、万葉集の恋のうたを読んで「なんてロマンチック!」とひとりときめいていたのだ。ズレていたとか、ひとと違う感性を持っていたとは思わない。私が少女漫画や恋愛小説を読んだら、きっと他の子たちと同じように目を輝かせたはずだから。ただ私は少女漫画でなく万葉集を選んだというだけのこと。そういう少女だった、それだけの話だ。

 

弁解はこれくらいにして、この本の魅力を語ろうと思う。

タイトルから分かる通り、この本は万葉集の膨大なうたの中から恋の歌だけ集めている。そしてそれらを、恋のはじまり、片思い、秘密の恋、などシーンごとに章をわけて紹介している。さらに、一句一句に内容の解説のほかにワンポイント解説をつけ、語彙や文法の説明をしている。私は語彙や文法をあまり気にしない質なので読み飛ばしてしまったが、今久しぶりに読み返してみると古典の勉強にぴったりな気がする。(勉強、と言っても本当にワンポイントなので肩肘張る必要はない)

 

最後に、私が最も衝撃を受けたうたを紹介して終わろうと思う。この本に収録されているうたでないことを断っておく。

 

あかあかや あかあかあかや あかあかや

あかあかあかや あかあかや月 (明恵上人)

 

 

 

 

 

 

松ノ枝の記

『道化師の蝶』円城塔

 

『道化師の蝶』収録二作品のうち、「松ノ枝の木」の方を

 

突拍子もない、とでも言おうか。とにかく、この物語は私の理解力の及ぶ場所になかった。なにを言っているんだ、と思い、同じ行を何度も読み直し、それでも全然理解できないまま次の行に進むしかなかった。

もちろん、私の読解力が足らないせいでもあるが、それを差し引いてもやっぱり突拍子もないような話だと思う。

 

定かでない彼によって今ここに私があり、私は未来から揺らぐ輪郭を見つめられている。自分というものの危うさと、モノカキとしての使命。松ノ枝の記に書かれている内容は、そんなところだろうか。でもそれは最も重要なことではない。あくまでも物語を構成する要素に過ぎない。

思うに、こういった類の物語は、「何を言わんとしているか」を理解するよりも、難しく考えずに雰囲気を楽しんでしまった方が良い。

 

「そう、彼は存在したのだ。ホモ・サピエンスに目撃された最後のホモ・ネアンデルターレンシスは確実に存在したのと同じに。」

 

頭の中であいまいに展開されるストーリーの中で、ただこの一文だけがざっくりと心に刻まれた。この一文ゆえに、私はこの『松ノ枝の記』が好きだ。ホモ・サピエンスに目撃された最後のホモ・ネアンデルターレンシスは確実に存在した、と何度心の中で復唱しただろう。そしてその度私の脳裏には社会の資料集に乗っていた人類の進化の想像図…ヒトと呼ぶにはおぼつかない猿人のイラストがぼんやりと浮かんだ。

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ハンバーガーって何か知ってる?

今日は本を読む時間がまるでなくて、ろくな紹介を書けそうにないので、最近見た動画の紹介をする。

 

私も最近大学の講義で紹介されて知ったのだが、Youtubeで「ted」と検索すると、様々な人のスピーチ動画を見つけることができる。だいたい、5分から20分くらいのスピーチで、実業家や技術者はもちろん、小学生くらいの子どものスピーチまである(子どもだからといって決して侮ってはいけない)

 

私の興味をひいたのは、マリアナ・アテンシオという女性の「なぜあなたは特別な存在なのか」というスピーチだ。

 

前半で、彼女は子どもの頃に参加したサマーキャンプでの経験を語る。サマーキャンプの参加者のほとんどは金髪碧眼のアメリカ人の子どもたちで、ベネズエラ人のマリアナとその妹は好奇の目に晒された。

そこでのエピソードがとても印象深かったので、聞いていただきたい。

 

「他の子供たちは私たちがまるで違う惑星から来たかのように見ていました。彼らからの質問は"ハンバーガーって何か知ってる?"とか"学校へはロバかカヌーで行くの?"」

(中略)

「彼らは意地悪しようとしているのではなく、私たちが何者かを理解したくて知っている世界と結びつけようとしたのでしょう」

 

私たちは、このエピソードを笑うことができるだろうか。私にはできない。自分と違う存在を理解しようとするとき、「ハンバーガーって何か知ってる?」と同じくらいバカげた質問をしないと誰が言い切れるだろうか。

 

マリアナは、自分を相手の立場に置いて考えることが重要だと言う。それは私たちが小さい頃から教わってきた思いやりの考え方と似ている。でも、私たちが理解しなければならないのは、「相手のためを思ってする」ことと、「相手のためになることをする」ことが違うのと同じくらい、「自分を相手の立場に置いて考える」ことと、「相手の立場を勝手に想像して考える」ことは違うということだ。

私たちは「ハンバーガーって何か知ってる?」と聞いてしまう自分の愚かさに常に注意深くなければならない。

 

と、まぁこんな感じにおもしろいスピーチがごろごろ転がっているようなので、ぜひ気になるスピーチを探してみてほしい。

 

youtu.be

 

※後日動画のリンク貼ります

追記:7月25日 動画のリンクを貼らせていただきました。