いろはにほへと

本の紹介を、備忘録を兼ねて

いのちの食べかた

いのちの食べかた森達也

 

ベジタリアンや、ヴィーガンという言葉を聞いたことのない人は少ないだろう。それでも一応解説しておくと、ベジタリアンとは肉や魚を食べない人々、ヴィーガンは肉や魚に加えて卵、乳製品、はちみつも食べない人々のことだ。肉や魚そのものでなくても、エキスが使われている調味料や、皮膚や骨から作られるゼラチンも口にしない、といった厳しい人もいる。

もしかしたら、このブログを読んでいる方の中にもベジタリアンヴィーガンはいるかもしれない。だから最初に、今日の記事は「ベジタリアンヴィーガンである/ない」で批判する意図はないと断りを入れたい。

 

突然ベジタリアンだのヴィーガンだのってなんの話だ、と思っただろうか。

今日紹介する本は、動物を食べる私たちについて書いている。小学校中・高学年から読めるであろう平易な文章で、量も文庫本で150ページ程度と少ないので、気になる方はぜひ読んでみてほしい。

平易な文章ではあるけれど、内容は随分濃い。肉が私たちの食卓へのぼるまでの過程に満遍なく触れている。その中で、作者が何度も伝えようとしていたことを抜き出してみた。

 

大切なのは「知ること」。

知って「思うこと」。

人は皆、同じなんだということを。いのちはかけがえのない存在だということを。

 

私たちは、自分がしていることを知らなければならない。自分を生かしているものがなにかを知らなければならない。自分の「食べたい」が動物を殺していることを自覚しなければならない。これから食べようとしている肉がどうやってここまで来たか、想像しなければならない。

 

ベジタリアンヴィーガンは自分が動物を殺していることを知り、食べられる動物のいのちを思い、「食べない」という選択をしている。

でも、「食べる」という選択だって間違いじゃないと私は思う。

どんな命も奪ったり傷つけたりすることなく生きていけたら、どんなに良いだろうか。
ベジタリアンヴィーガンの人々は、もしかしたらそんな未来を願っているのかもしれない。誰も肉を食べなくなったら、動物を殺す必要はないのだから。

でも。でも私はその願いを踏みにじっても、「食べる」という選択をするだろう。食べたいから。おいしいから。それだけの欲望のためにいのちを奪われる動物がいることを知ってなお、私は「食べる」。

なぜか、と聞かれてもまだ論理的な説明は難しい。でも「食べない」という選択は、私にとっては逃げているように感じてしまう。

 

何が正しいかはわからない。だから私はこれからも考え、「食べるか、食べないか」という問いを自分に課し続けるだろう。

それでいいと思うのだ。自己弁護のようだけれど、大切なのは何を選択したかより、自分で考えて選んだという事実だと思うから。