ノートルダムの鐘
キリエ・エレイソン、主よ哀れみを
劇団四季のノートルダムの鐘をずぅっと見たいと言っていて、去年の8月にようやく叶いました。12月にもう一度観に行くほどドハマりした…。
キャッツはもう3、4回ほど観ているくらい好きなんですが、どっちがいいか聞かれたら永遠に迷い続ける気がします。
感想を語り始めたら止まらない気がするので、今回はどうしても誰かに聞いてほしい部分だけかいつまんで書きます。ネタバレあり、というか隠す気さえないので知りたくない方回れ右でお願いします。
ちなみに原作・ディズニー映画ともに未履修です。
まずは簡単に人物紹介から。
カジモト 主人公。ノートルダム大聖堂に住む鐘つき男。醜い容姿。
エスメラルダ ヒロイン。ジプシーの美女。
フィーバス 大聖堂警備隊隊長。将来を約束された兵士。
勘の良い方ならもうお気付きのはず、今回の話題は、エスメラルダを巡る恋の三角関係です。
カジモトは、その醜い容姿ゆえに聖堂の外に出ないよう厳しく言い渡されています。彼はとても素直かつ身体的な問題もあり、その言いつけを守り続けているのですが、ある年の大きなお祭りの日、とうとう聖堂を抜け出してしまいます。そこで出会ったのがエスメラルダ。なんやかんやで二人は友人になります。
一方フィーバスもその祭りの日にエスメラルダと出会い、こちらもこちらで仲を深めます。
結局エスメラルダが選ぶのはフィーバスなのですが、ここでカジモトは大きな勘違いをしていると、私は思うのです。
2幕中盤、魔女として指名手配されるエスメラルダをかばい、フィーバスは兵士という地位を捨てます。そしてエスメラルダと仲間のジプシーたちに隠れ家が追手にばれてしまったことを警告するため、カジモトとフィーバスはともに夜のパリへ繰り出します。
再会したエスメラルダとフィーバスは、残酷にもカジモトの前で愛のデュエットを歌うのです。
これこそ奇跡 今気付いたわ
これこそ奇跡 君がくれた奇跡
兵隊とジプシー 抱きしめあう
これこそ奇跡
愛しあう二人のまばゆい光に満ちた姿を見て、カジモトはこう歌います
僕の愛は 報われない
孤独に生きよう
不気味な顔だから
境遇を考えると、ちょっと「オペラ座の怪人」のファントムに似ていますね。
でも彼がファントムと違うのは、彼はエスメラルダに恋人として選ばれなかっただけで、人と人としての関わりを拒否されたわけではないことです。
確かに、カジモトは養父から「怪物」と呼ばれ、人々から嘲笑われた挙句散々な目に遭わされます。でも、エスメラルダは彼を「友達」と呼ぶし、フィーバスも彼の容姿をあげつらうことはしませんでした。
フィーバスとカジモトがエスメラルダの警告しに行く直前のシーンです。地図はエスメラルダがくれた小さなお守りだけ。彼らはどちらが彼女を助けに行くかで諍いをします。僕が行く、と言い張るカジモトにフィーバスは「ロクに喋れないのに?」と言い放ちます。すごく冷たい台詞に聞こえますが、冷静に考えるとそうでもないのです。フィーバスは満足に話せないおまえが行って、エスメラルダたちにピンチを伝えることができるのか?と言いたいだけなのです。醜いおまえにヒーローの役目は渡さないぞ、といった偏見は彼にはないと思います。
だからこそフィーバスは、エスメラルダが火刑に処されたとき、彼女を助けに行く役目をカジモトに任せ、自分は民衆を煽ってカジモトのフォローに回るのです。
まあそれはそれとして、カジモトが失恋してしまったことに変わりはないのですが。
不気味な顔だから愛されない、というのもエスメラルダの立場からしてもちょっと違うと思います。
ではなぜエスメラルダはカジモトを選ばなかったのか?
このまま続けたいところですが、ここまででだいぶ長くなってしまったので第2弾に続けたいと思います。
やろか水
『やろか水』瀬川拓男
日本で生まれ育った人なら、「まんが日本昔ばなし」にお世話になった経験がある事は珍しくないはずだ。
もちろん私もその一人だ。
呆れたことに私にはサッパリ記憶がないが、テレビアニメでも放映していたらしい。
じゃあどこで世話になったのかというと、家にまんが日本昔話の全集のような分厚い本があった。
幼い頃はよくその中から読み聞かせをしてもらったものだ。
お気に入りは『雉も鳴かずば』と『鉢かつぎ姫』で、『耳なし芳一』と『手長足長』はいつまでたっても怖かった。
そんな思い出の「まんが日本昔ばなし」だが、最近お話データベースなるものがあることを知った。
全1474話分のデータベースがあり、ものによってまちまちだが放送日やあらすじ、出典などを閲覧することができる。はぁ素晴らしきネット時代。
で、今日はその中から『やろか水』を紹介する。
放送日は私が生れる前だし、私が持っていた本にも載っていなかったので格別な思い出はないのだが、儚くて美しい情景がたいへん気に入った。
日本に限ったことではないかもしれないが、日本昔ばなしには治水に関する物語が非常に多いように思う。先に挙げた『雉も鳴かずば』は治水のための人柱に関わる話だし、有名な『大工と鬼六』なんかも架橋の話だ。
度重なる洪水に頭を悩ませた先人たちの苦労が偲ばれる。
この作品も洪水にまつわる話で、堤防を守る男と先の洪水で夫を亡くした女の恋物語でもある。
女の夫は、水門の守りをしていたとき、川上からきこえてきた「やろか、やろか」という声に「よこさばよこせ」と答えたために濁流に飲まれ死んでしまった。
女は夫を思いながら川に月見草の花びらを散らす。
みんな流されて死ねば良い、月見草は死に逝く者の足元を照らす
月見草の花弁に照らされながら、仄暗いあの世への道をぺったぺったと歩く人々を想像した。
美しい、そう思わずにはいられなかった。
思えば彼岸と此岸を分けるのも川だ。荒れる川のほとりで危うげに揺れる生と死のバランスがなんとも綺麗だ。
結局、女がこの打ち明け話をした男もあの「やろか、やろか」の声に「よこさばよこせ」と答えてしまう。
女にかっこいいところを見せようとでも思ったのだろうか。
女が撒いた月見草に照らされてぺったぺったとどこか遠くへ行ったに違いない。
鷲は舞い降りた
『鷲は舞い降りた』ジャック・ヒギンズ(菊池光 訳)
このところ、スパイに関する話を聞くことが多かったので、せっかくだから以前から気になっていたこの本を手に取ってみた。
これを言うとよく驚かれるけれど、私はたいていの本を結末から読む。
最後に主人公たちがどうなったかを知って、それから彼らを旅立たせる。
そうしないと、怖くてとても読み進められないのだ。
この本も他と同じく先に結末に目を通したけれど、もしかしたらその必要はなかったかもしれない。
なぜなら、これは史実をベースにした物語で、史実に沿った結末が待っているからだ。
ところで、私たち読者には、時折"神の目"が与えられる。
私たちは、主人公たちには知り得ない時間や距離、敵味方の関係性を飛び越えたすべての情報を受け取る。
だから、彼らより一歩先にこの先起こるであろうことを察知できてしまう。
完璧な計画の綻びにも気付くことができる。
しかし厄介なことに、神である私たちは、同時に傍観者であり、物語世界で展開されるあらゆる事象には介入できない。
爪を噛んで見守るしかないのだ。
ああそして、計画の足を引っ張る登場人物にイラつかずにはいられないあなたは、私と良い友達になれるかもしれない。
彼が気付いていない彼の失態に、思わず歯ぎしりするあなたのことだ。
結末と読者の視点の話をしたのは、何を隠そう作者を称賛するためだ。
ベースが史実である以上、最後の最後でどんでん返し、というわけにはいかない。語弊があるかもしれないが、読者はネタバレされた状態で読み進めているようなものだ。
にも関わらず、私たちは登場人物たちの一挙一動に興奮し、場面の緊張感に気圧され、最後には「あぁ、」と言わずにはいられないのだ。
さすがロングセラー作品だけある。あまりにも見事だ。
なんと、この本には続きがあるらしい。しかし、"死んだと思われた主人公が実は生きていた”という設定だそうで、読者によって賛否が分かれるようだ。
私は、今のところ読むつもりはない。
こんなにきれいに完結した物語の続きをわざわざ見に行く気にはならない。
凍りのくじら
お久しぶり。
夏休み、前半はバイトに明け暮れ後半は海外へ行っていたら、すっかりブログなどなおざりになってしまった。
久しぶりに紹介する作品はこちら。
『凍りのくじら』辻村深月
白く凍った海の中に沈んでいくくじらを見たことがあるだろうか。
最初の一文で、私はこの本の購入を決めた。
くじらたちは氷の海に迷い込み、閉じ込められてしまっている。
かわいそうに、海に住む生き物なのにくじらは空気を吸わねば生きていけない。
このくじらは間もなく力尽き、海に沈んでいく。
静かで切ない死。
私は昔水族館が嫌いだった。
じっと水槽を見ていると、自分もその中にいるような気分になり、かといって魚になり切れもせず…息ができなくなってもがいた。
あの、水槽に閉じ込められた錯覚のような閉塞感は、思春期の私のところへ度々やってきては悩ませた。
誰だって、わけのわからない閉塞感に悶えたことがあると思う。
この物語の主人公も、息を継げる場所の無さ、つまり寄る辺のなさに苦しんでいる。
彼女は自分を「少し・不在」と言う。
いろんな人たちと仲良くなれるけど、いつもどこか溶け込めない。
人から思われるほど、人を思うことができない。
それでも彼女は人と関わることをやめない。
私はそれを強さだと思う。
そして、彼女は彼女を思う人に照らされる。
息のできない暗い海底で、わずかに開いた氷の隙間から差す光はどれほど美しいだろうと思う。
その光の方に、息のできる場所がある。
その光の中でなら生きていける。
それは、命を繋ぐ希望の光。励ましの優しい光。
くじらは、私たちだ。
でもくじらでなくなった私は、誰かのための光になりたい。
明日戦争がはじまる
『明日戦争がはじまる』宮尾節子
まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった
インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった
虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった
じゅんび
は
ばっちりだ
戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる
今日の記事は宮尾節子さんの詩からはじめてみた。
ほんとうは終戦記念日の昨日投稿したかったのだけれど、忙しくて今日に先延ばしにしてしまった。
ところで、茹でガエルの法則を知っているだろうか。
熱いお湯に投げ込まれたカエルは必死に脱出するが、冷たい水からゆるやかに温度を上げられたカエルは、熱湯になっても気付かずにゆでられて死んでしまう、というものだ。
この詩は、私たちは茹でガエルだと言っている。
少しずつ、少しずつ鈍くなって、自分が死の淵にいることにも気付かない愚か者だと言っている。
私はこの詩を初めて読んだとき、目を覚まさなければ、と思った。
私は、画面の向こうの顔の見えない相手を心ある人間として扱っているか。
雑踏で一瞬すれ違うだけのどの人にも人生がある事を忘れていないか。
毎日飛び込んでくる殺人や戦争のニュースを遠いどこかの出来事と思っていないか。
そして次に、この詩を広めなければ、と考えた。
宮尾さんは、この詩を反戦の詩ではないと言う。だから私も反戦詩としては扱わない。
そのうえで、この詩はそれでも多くの人に読まれるべきだと思ったのだ。
なぜだろう。私は、これは皆の問題だと思う。
目を覚ませ、目を覚ませと声をあげなければ。
皆が目を覚ましていなければ。
私たちは知らぬ間にゆでられて死んでしまう。
※茹でガエルの法則に科学的根拠はないと言われています
ふしぎをのせたアリエル号
『ふしぎをのせたアリエル号』リチャード・ケネディ(中川千尋 訳)
ぬいぐるみの頭に針を突き刺した経験はあるだろうか?
私はある。
この本の主人公エイミイは船長の人形キャプテンとずっと一緒だった。
エイミイが生れた日にキャプテンも生まれた。
エイミイが10歳の時、ぼろぼろになったキャプテンを繕っていたところ、誤ってキャプテンの頭に思い切り針を突き刺してしまう。
すると不思議なことに…キャプテンに命が宿り、動き出したのだ。
こんな風に、この物語では人形やぬいぐるみが動き出し、本物になる。
小学生だった私はそれを読んで、自分のぬいぐるみたちに同じことをした。
残念ながら、私のぬいぐるみたちに不思議は起こらなかったけれど、今はそれでよかったと思える。
だって、命が宿ってしまったら、いつか終わってしまう。死んでしまう。私を置いて行ってしまう。それは嫌だ。
私はもう二十歳を過ぎたけれど、今でも手放せないぬいぐるみがいる。
パンダのリンリンと、ねずみのブラちゃんだ。
彼らは私の親友で、兄弟だ。
私の成長を(もしかしたら実の両親よりも)よく知っている。
初恋も、いじめられて泣いたことも、妹とのけんかも知っている。
道端で野良猫と会話するのと同じように、私はぬいぐるみたちと会話する。傍から見たらモノにベラベラ喋りかける不審者でしかないけれど、猫にきっと言葉が通じているように、私にしか聞こえない彼らの言葉がある。
ぬいぐるみについて長く書いたけれど、この本のクライマックスは人形に命が宿るところではない。そのあとだ。
キャプテンは本当の船長になって海へ漕ぎだしていく。
元ぬいぐるみの不思議な乗組員たちと一緒に。
その船旅のなかで生まれる、生きていくことの愛憎がこの物語の最大の魅力だと思う。
人形やぬいぐるみの純真なイメージは、彼らが心を持ち言葉を得ることで崩れ去る。
ぬいぐるみにも嫌いな相手や、悪だくみをする心があると知る。
それを知ったところで、がっかりしたり幻滅したりはしない。むしろその人間臭さが愛おしくてたまらなくなる。
もし、大切にしていたぬいぐるみや人形がいるなら、もう一度膝に抱いていっしょにこの本を読んでみてほしい。
今でも一緒に出かけるほど仲良し(リンリンは大きすぎてなかなか外へ出られない)
失われた本
更新が永久停止してしまいそうなので、ちょっと雑談を。
私の実家には、「お蔵(おくら)」と呼ばれている部屋がある。
正確には部屋でもなくて、中二階というのが正しいだろう。
そこには、いろんなものが眠っている。古い着物や、年代物のお酒、誰も弾かなくなった楽器といった物から、父のコレクションや季節外れの洋服といった物まで、本当にいろいろだ。
その膨大なモノの中に、”本”があった。
母とその姉が昔読んでいた本が主で、バーネットやモンゴメリーから夏目漱石、川端康成も揃っていた。(漫画も少しだけあった)
私は小学生の頃、お蔵に籠ってずっとそれらの本を読み漁っていた。あまりにも長くそこにいたので、祖父が私のために一人掛けのソファと小さな机をしつらえてくれた。(私がますますそこから出てこなくなったのは言うまでもない)
当時私のお気に入りだったのは、若草物語、黒い目のレベッカ、悲しみの王妃、ジプシーの少女、小鹿物語、といったところだろうか。ただでさえ端が茶色く変色して、破れてしまいそうなページをそれはもう繰り返し繰り返しめくっていた。そこにいる時間は最も幸福で、私は満たされていた。
だからだろうか。あのころ読んだ本たちにはひと際強い思い入れがある。いつか私に子どもが生れたら。あるいは、妹か弟に子どもが生れたら、私はあの本たちを与えたいと思っていた。
ただ、それはもう叶わない。あのかけがえのない本たちは、今年すべて父の手で処分されてしまった。
父に悪意はなかった。ただ、私がどれほどあの本たちを大切に思っていたか知らなかっただけだ。父に罪はない。だから、私は一言も父を責めはしなかった。
かわりに母の膝で声を上げて泣いた。喪失感と、不甲斐なさで胸が張り裂けそうだった。
どうして早くにこの本は自分のものだと言わなかったのか。すべてなくなってしまうまで気付けなかったのか。いくら後悔してもし足りない。
あの本たちをどう処分したのか、怖くて父に尋ねることはできなかった。売られるならまだしも、資源ゴミにでもされていたらまた泣かずにはいられないだろう。
愛した本たちの多くは偕成社の少女名作シリーズで、探せば中古品は見つけられるだろうが、私はまだそうする気になれない。思い入れがあるのは、昔母が読んでいて、小さな私が読んだあの本だから。
こうして文章にしてみると、臓器ひとつ失ったような心地が少し落ち着いた気がする。なくなってしまっても、物語の感動が私から去っていくことはない。
せめてもの供養になると信じて、あの本たちの感想もそのうち記事にしたいと思う。