いろはにほへと

本の紹介を、備忘録を兼ねて

思い出のマーニー

思い出のマーニー』ジェーン・G・ロビンソン(高見浩 訳)

 

スタジオジブリがマーニーを映画化したとき、流れていたCMの主題歌があまりにも美しくて、これは観に行こうと決めた。(And I cry…のところでは何度聞いても泣き出したくなってしまう)

 

私は結末のわからないストーリーを観るのが大の苦手だから、事前学習にと本を買った。

映画と小説どちらが好きか、と聞かれたら、私は小説の方が好きだ。

もちろん、映画もとても気に入った。(映画を見た日の日記で絵の美しさを絶賛しているし、パンフレットも買った)

でも、最初に小説を読んだからか、小説の方がいいな、と思ってしまう。

特に、小説に登場するお気に入りの五人兄弟が、映画ではひとりの女の子にされてしまったのが残念だった。

 

ところで、物語の大半は海辺の大きな家の周りで繰り広げられる。

私は、海の側に住んだことが一度もない。それどころか、私の住む県には海がない。

だからか、小さい頃から海に対する強烈な憧れがある。

マーニーの家は、その憧れに拍車をかけた。

潮の満ち引き、波の音、水平線に沈む夕日。そんなものが、私にとっては現実から遠く離れた夢の世界への扉になる。夢と現実が交錯するマーニーの世界は、私の中で偶像化さえされてしまう。

その証拠に、私は近所の大きな池の側に建つ家を、「マーニーの家」と呼んでつい観察してしまうのだ。

 

尻切れトンボになってしまうけれど、今日はここまで。なんてったって明日は期末試験なのです!

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ハッピーバースデー

『ハッピーバースデー 命輝く瞬間』青木和雄

 

誕生日に「おめでとう」と言ってもらえない子供がいることを、私はずっと知らなかった。

 

私がDVに興味を持つ最初のきっかけになったのがこの本だ。最初に読んだのは小学校三年生か四年生だったから、DVという言葉を知ったのはもっと後になってからだけど、この本に出会っていなければDVに興味を持つこともなかったと思う。

 

この作品のすごさは、200ページちょっとの間に機能不全家族スクールカーストによるいじめの問題をきちんと書ききっていることだ。機能不全家族はストーリーの序盤から終盤まで一貫して描写され、いじめは中盤、成長した主人公の見せ場となっている。

そのうえ、二つの暗いテーマを抱えながら、愛や幸せも暖かな日差しのごとく降り注いでくる。

 

私がこの本を読んで一番苦しかったのは、最後には機能不全家族もいじめも解決してハッピーエンドになるところだ。途中までは、主人公を自分に重ね合わせて感情移入して一緒に悩むことができた。ところが途中から主人公は自分と対極の存在になっていってしまう。現実はこんなにうまくいかない。小学生だった私にも、これは物語だ、とわかった。というより、感情移入していた主人公の中から弾き飛ばされて、何も解決しない自分の現実が目の前に横たわっていた。だからこそ考えたのかもしれない。うまくいかない、苦しすぎる現実を少しでも明るい方へもっていきたいと思った。もう何年も(もしかしたら10年近く)家族の在り方や、いじめの問題は私の中で渦巻いている。

 

 

この本は改訂版も出版されていて、そちらではメインの登場人物が増え、主人公の母親の心理描写がより細やかになっている。私はどちらかと言えば改訂前の方が好きだけれど、そこは個人の好みだろう。

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悲しみよこんにちは

悲しみよこんにちはサガン(河野万里子 訳)

 

ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。

 

物語の最初の一文だ。出だしから「あ、この物語は普通じゃないな」と感じる。普通じゃない、というのは構成や内容のことではない。作者の感性を言葉に変換する能力が、あまりにも高すぎるということだ。

 

驚くべきことに、この作品を執筆した当時サガンはまだ19歳だった。私が初めてこれを読んだのは16歳くらい、今は20歳になったけれど、彼女の才能に対する驚嘆は変わらない。

 

物語は夏のけだるい暑さを、冬に思い出して懐かしむような口調で語られる。焼けつくような感情 (例えば、愛や妬みや苦痛)はもう過去のもので、取り出しても少しも痛くない。でも決して淡々としているわけではなく、熱は言葉を通して伝わってくる。

こんな才能があるだろうか。私はうらやましくて仕方がない。優れた感受性をもったひとは、たくさんいる。だけど、それを言葉にして伝えられるひとは、一握りもいやしない。サガンは、その一握りよりも少ない人間のひとりだ。

 

サガンはだいぶ無茶な生き方をしたひとだ。20代前半から麻薬中毒になったり、結婚と離婚を繰り返したり、脱税で有罪判決を受けたり。そしてその傍ら小説を書き続けた。それでも生き急ぐことなく69歳まで生き2004年に亡くなった。(まぁ、少し早い気もするけど)

そんな彼女のデビュー作であり代表作がこの『悲しみよこんにちは』である。

みずみずしく熱い若さと才能にあふれた…。訳者はあとがきで「ところどころ、もしも原文を切ったらまっ赤な血が噴き出すのではないかという気さえする。」と述べているが、全くその通りだ。

 

退廃的な夏休みの刺激に読むことを勧めたい作品だ。

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人はなぜ物語を求めるのか

 

『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子

 

昨年に読んだ本で、Twitterで感想を呟いていたものをまとめなおす。どちらかというとコラムのほうの感想かもしれない。

 

この本は作者の連載コラムがもとになっていて、私はコラムを読んで本書の購入を決めた。

コラムを読んだとき、私の中に残ったのは苦しみだった。人は自分の身に降りかかるあらゆる出来事を物語化せずにはいられない。ひとつひとつの結果に理由を求め、''そういう物語''として勝手に納得したり憤ったりする。(この物語化については短く説明することが難しいので実際コラムなり本書なりを読んでいただくことをお勧めする。)

また人は、不条理(納得できない結果)に出くわしたとき「なぜ?」と問い、自分を納得させる物語を作り出す。

 

「テストでよい結果が出せなかった」←結果(不条理)

なぜ?

「テストの時間お腹が痛かった」←理由付け

「お腹が痛くてテストでよい結果が出せなかった」←物語化

(この時、理由と結果の間に実際因果関係があるとは限らない。)

 

私はこの本と出会うずいぶん前からある出来事に理由付けをしようと躍起になっていた。その出来事は、本来なら悲しみか怒りを感じるはずなのに、不思議と「なぜ?」という思いしか湧いてこなかった。原因を執拗に分析したけれど、私は自分が結果の原因や過程を求めてなぜ?と問うているのではないと薄々気づいていた。私は、他の誰かではなくなぜ自分がこんな目に遭ったのか。という途方もないやりきれなさの持っていき場をなくしていた。

上の例で考えれば、毎日予習復習していたし、昨日も勉強して、睡眠時間もばっちり。なのにテストの点数は悪かった。なぜだろう。確かにテストの時間お腹が痛くなったけれど、それが本当の原因ではないとどこかで気付いている。といった状況だ。

 

そして私は猛烈に物語化する人間の性に憤りを抱いた。物語に操られている気がしたと言うべきか。理由なんて本来必要ない。なんなら存在しない。それでも「なぜ」と問わずにはいられず、''そこ''から''ここ''へ至るまでの過程を語らずにはいられない。なんというむなしさだろう。

 

そういうわけで、物語化論を受け入れるには少し時間がかかった。今ならわかるが、あの息苦しさは、ふと呼吸の仕方を忘れてしまったときのそれと似ている。普段はなんてことなく絶えず繰り返しているのに、''呼吸’’を意識した瞬間喉は引きつり肺は不規則に収縮し始める。物語化も、意識の外にあるときは何の脅威にもならないが、一度気付いてしまえば牙を剥いて人間の在り方を抉ってくる。少し離れたところから、うまく付き合っていくしかないのだ。

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おちくぼ姫

『おちくぼ姫』 (田辺聖子)

突然だけれど、日本のお姫様たちはかわいい。その意思の弱さはどうなんだ、と思うことも多いけれど、とにかくかわいい。今日はそんなかわいい日本の姫君の一人、おちくぼ姫の話をしようと思う。

 

昔話の好きな人なら知っているかもしれない。おちくぼ姫は、わかりやすく説明すれば日本版シンデレラだ。継母や義姉にいじめられ、実の父親にも顧みられず、惨めな暮らしをしているところに立派な貴公子が現れ姫をさらっていく。最後は貴公子と結婚し、子どもも生まれてめでたしめでたし、だ。

 

物語『おちくぼ姫』の魅力は、姫の周りの個性的な登場人物たちにある。その最たるは姫の女房の阿漕だろう。継母にいじめられる姫にいつも寄り添い、ピンチのときは機転を利かせ姫を救う優秀な女房である。

 

思うに、日本の昔話では、女性の役割というのは二分されている。一人の女性がか弱さと強さを併せ持つのではなく、儚く可憐な側面と、強くしなやかな側面を別の女性が演じている。この分業によって、女性の2つの側面を描くと同時に女登場人物たちに個性をもたせることができる。もちろん、この時代の女性たちに求められた理想像も念頭に置かねばならないが。

 

さて、今回は『おちくぼ姫』の紹介をしたけれど、日本にはまだまだ素敵なお姫様の物語がたくさんある。鉢かつぎ姫なんかは小さい頃から大好きな作品なので、そのうち紹介したい。

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水に浮かぶ女

今日は趣向を変えて絵の話をしようと思う。

私は絵を見るのが好きだ。

残念ながら美術的な知識なんてものはなく、ただ美しいと思うだけなのだけれど。

誰の絵が好きか、と聞かれると困ってしまうが、ミュシャは好きだ。あとは印象派とかラファエル前派の絵はよく見るかもしれない。


さて、今日のタイトルの「水に浮かぶ女」は、何かの絵のタイトルというわけではない。ただ私が水に浮かぶ女の絵が好きだからつけてみた。

これでは訳がわからないだろうから、詳しく説明する。


私が好きな水に浮かぶ女の絵は、二つある。

ウォーターハウスの「シャロットの姫」とミレーの「オフィーリア」だ。どちらも検索すればすぐに出てくるので一度見てみてほしい。


シャロットの姫はかの有名なアーサー王伝説の騎士ランスロットに恋をした姫、オフィーリアはシェイクスピアの戯曲「ハムレット」の主要な女性キャラクターで、どちらも悲劇の女だ。

シャロットは愛ゆえに自ら呪いにかかり、オフィーリアは正気を失い、それぞれ水に浮いている。

シャロットは船に乗っているから、浮いているのとは少し違うかもしれないが。


絵にされた場面だけを切り取ればどちらも似たような状況下にあるが、そこに至るまでの経緯は全く違う。(これも興味があれば調べてみてほしい)

その差が最もよく現れているのは二人の表情だ。

シャロットの顔は悲しげだ。何かに苦しんでいるように眉をひそめ、こちらをじっと見つめている。シャロット姫を題材にした他の作品も見てもらえばすぐにわかるが、彼女の瞳は大方強い意志を秘め燃え盛っている。

一方オフィーリアは、虚空を見つめ口を半開きにしてたゆたっている。もはやそこにはなんの意思もない。彼女はその命とともに悲しみを手放した。


私はこの二作に優劣をつけることができない。どちらが好きかと聞かれたらどちらも同じくらい好きだと答えるほかない。

というわけで、皆さんにもぜひとも「シャロットの姫」と「オフィーリア」を見てもらいたい。

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禁じられた約束

『禁じられた約束』ロバート・ウェストール(野沢佳織 訳)

 

私は児童文学が好きだ。なぜか、と聞かれると答えに詰まってしまうけれど、とにかく好きだ。小学生あるいは中学生だった時分から読み続けている作品も多い。そのひとつがこれだ。ロバート・ウェストールの作品は何作か読み、一番好きな作品は別にあるけれど手元にあるのはこの本だけだ。

 

ロバート・ウェストールの作品は、戦争だとか死だとかを扱ったものが多い。でも、それはテーマじゃないと私は思う。もちろん、意味があって取り入れているのだろうけど…。なんというか、暗いけれど重くない。戦時中だって日常はあるし、死は日常の一部である。だからこれはあくまでも日常の話だ。と、そんな風に説明するしかない。

 

「いっしょに笑っちゃいけないのかい、相手が死ぬとわかっていたら?それじゃ、笑うことなんてできなくなっちまうよ。あたしたちはみんな、いつか必ず死ぬんだからね」

 

恋人を亡くした主人公に祖母がかけた言葉だ。祖母の登場シーンは少ないが、存在感は大きく、いっとう好きなキャラクターだ。

みんないつか必ず死ぬなんてことは、主人公だってわかっているだろう。死期がせまったひとと笑うのと、いつか死ぬけれどそのいつかはまだ当分やってきそうにないひとと笑うのは、ぜんぜん違う。でも、この祖母にかかれば同じなのだ。そして、亀の甲より、というやつだろうか。祖母の言葉は説得力にあふれていて、なぜか納得させられてしまう。

 

本の紹介と言いつつ、いつも核心に言及するのは気が引けて、遠回しでよくわからない文章になってしまう。備忘録だしまあいいか。こんなブログからでも興味を持ってくれるひとがいたら嬉しいな。

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