人はなぜ物語を求めるのか
『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子
昨年に読んだ本で、Twitterで感想を呟いていたものをまとめなおす。どちらかというとコラムのほうの感想かもしれない。
この本は作者の連載コラムがもとになっていて、私はコラムを読んで本書の購入を決めた。
コラムを読んだとき、私の中に残ったのは苦しみだった。人は自分の身に降りかかるあらゆる出来事を物語化せずにはいられない。ひとつひとつの結果に理由を求め、''そういう物語''として勝手に納得したり憤ったりする。(この物語化については短く説明することが難しいので実際コラムなり本書なりを読んでいただくことをお勧めする。)
また人は、不条理(納得できない結果)に出くわしたとき「なぜ?」と問い、自分を納得させる物語を作り出す。
「テストでよい結果が出せなかった」←結果(不条理)
なぜ?
「テストの時間お腹が痛かった」←理由付け
「お腹が痛くてテストでよい結果が出せなかった」←物語化
(この時、理由と結果の間に実際因果関係があるとは限らない。)
私はこの本と出会うずいぶん前からある出来事に理由付けをしようと躍起になっていた。その出来事は、本来なら悲しみか怒りを感じるはずなのに、不思議と「なぜ?」という思いしか湧いてこなかった。原因を執拗に分析したけれど、私は自分が結果の原因や過程を求めてなぜ?と問うているのではないと薄々気づいていた。私は、他の誰かではなくなぜ自分がこんな目に遭ったのか。という途方もないやりきれなさの持っていき場をなくしていた。
上の例で考えれば、毎日予習復習していたし、昨日も勉強して、睡眠時間もばっちり。なのにテストの点数は悪かった。なぜだろう。確かにテストの時間お腹が痛くなったけれど、それが本当の原因ではないとどこかで気付いている。といった状況だ。
そして私は猛烈に物語化する人間の性に憤りを抱いた。物語に操られている気がしたと言うべきか。理由なんて本来必要ない。なんなら存在しない。それでも「なぜ」と問わずにはいられず、''そこ''から''ここ''へ至るまでの過程を語らずにはいられない。なんというむなしさだろう。
そういうわけで、物語化論を受け入れるには少し時間がかかった。今ならわかるが、あの息苦しさは、ふと呼吸の仕方を忘れてしまったときのそれと似ている。普段はなんてことなく絶えず繰り返しているのに、''呼吸’’を意識した瞬間喉は引きつり肺は不規則に収縮し始める。物語化も、意識の外にあるときは何の脅威にもならないが、一度気付いてしまえば牙を剥いて人間の在り方を抉ってくる。少し離れたところから、うまく付き合っていくしかないのだ。